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第5話 妻を抱けない僕が、彼女にはまた会いたいと思った

家に着いたのは、午後10時を少し過ぎた頃だった。

玄関を開けると、妻の靴が揃えて置いてあった。

リビングからテレビの音が聞こえる。

「遅かったね」

妻はソファに座ったまま言った。

「取引先と食事になって」

用意していた嘘が、驚くほど自然に口から出た。

「ご飯は?」

「食べてきた」

「そう」

妻はそれ以上聞かなかった。

テーブルの上には、ラップをかけた煮物が置いてあった。

おそらく僕の分だ。

妻は僕が夕食を食べるか分からなくても、いつも一応用意してくれている。

胸の奥に、鈍い痛みが広がった。

風呂に入ると、何度も身体を洗った。

美沙の香りを消すためだった。

しかし、香りが消えても、触れた感覚までは消えなかった。

頬に触れた髪。

腕の中にあった身体の重み。

名前を呼ばれたときの声。

目を閉じると、鮮明によみがえった。

寝室へ行くと、妻はすでに眠っていた。

布団から出ている背中を見ながら、僕はしばらく立っていた。

この人とも、かつては触れ合っていた。

妻の寝顔を見るだけで、愛おしいと思った時期があった。

その感情がすべて消えたわけではない。

今でも家族として大切だ。

体調を崩せば心配する。

困っていれば助けたい。

けれど、触れたいとは思えない。

なぜ美沙には、あれほど強く惹かれたのか。

新しい相手だから。

秘密の関係だから。

日常ではないから。

理由はいくつも考えられた。

しかし一番大きいのは、美沙が僕を男として見てくれたことだと思う。

翌朝、美沙からメッセージが届いた。

「昨日はありがとうございました。無事に帰れましたか?」

それだけだった。

また会いたいとは書いていない。

楽しかったとも書いていない。

僕は急に不安になった。

美沙は後悔しているのではないか。

一度だけのつもりだったのではないか。

僕だけが浮かれていたのではないか。

「こちらこそ、ありがとうございました。無事に帰りました」

無難な返信を送り、続きの言葉を待った。

一時間経っても返事はなかった。

昼になっても、既読がつかない。

仕事中だと分かっているのに、何度も画面を確認した。

昨日までは、家族を壊さないために深入りしないと決めていた。

それなのに、たった半日返信がないだけで、胸がざわついている。

夕方、美沙からようやく返事が届いた。

「少し考えていました」

その一文を見た瞬間、身体が冷たくなった。

続けて送られてきた文章には、こう書かれていた。

「昨日のことを後悔しているわけではありません。でも、思っていたより隆司さんのことを考えてしまって、少し怖くなりました」

僕は画面を見たまま動けなかった。

美沙も、同じなのだ。

ただの気晴らしでは終われないかもしれない。

家庭の外に少しだけ逃げ場を作るつもりだった。

会えない時間を埋める相手がほしかった。

それなのに、一度触れただけで、もっと欲しくなっている。

僕は返事を書いた。

「僕も同じです。今日一日、ずっと美沙さんのことを考えていました」

送信したあと、すぐに既読がついた。

数分後、美沙から電話がかかってきた。

通話ボタンを押すと、少し震えた声が聞こえた。

「声を聞きたくなってしまって」

僕は会議室を出て、誰もいない非常階段へ移動した。

「僕もです」

「これ以上会ったら、苦しくなりますよね」

「たぶん」

「それでも、会いたいですか?」

答えは決まっていた。

「会いたいです」

電話の向こうで、美沙が息を吸う音が聞こえた。

「私もです」

その夜、家に帰ると、妻がキッチンで夕食を作っていた。

エプロン姿の背中を見ながら、僕は自分が二つの生活を持ち始めたことに気づいた。

妻と築いてきた、守るべき日常。

美沙と過ごす、誰にも言えない時間。

どちらか一つを選ぶつもりはなかった。

どちらも失いたくなかった。

それが身勝手な考えであることは分かっている。

家庭を壊したくないと言いながら、その外に別の居場所を作っている。

妻を傷つけたくないと言いながら、傷つける可能性のある行動を続けようとしている。

それでも僕は、スマートフォンに届いたメッセージを見てしまった。

「次は、いつ会えますか?」

台所では、妻が味噌汁の味見をしていた。

僕はその背中を見ながら、画面の中の美沙に返信した。

「来週の金曜日なら、時間を作れます」

送信した瞬間、もう後戻りはできないと分かった。

けれど、不思議と指は震えなかった。

一度目は迷いだった。

二度目からは、自分の意思だった。

第4話はこちら>>

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