家に着いたのは、午後10時を少し過ぎた頃だった。
玄関を開けると、妻の靴が揃えて置いてあった。
リビングからテレビの音が聞こえる。
「遅かったね」
妻はソファに座ったまま言った。
「取引先と食事になって」
用意していた嘘が、驚くほど自然に口から出た。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「そう」
妻はそれ以上聞かなかった。
テーブルの上には、ラップをかけた煮物が置いてあった。
おそらく僕の分だ。
妻は僕が夕食を食べるか分からなくても、いつも一応用意してくれている。
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
風呂に入ると、何度も身体を洗った。
美沙の香りを消すためだった。
しかし、香りが消えても、触れた感覚までは消えなかった。
頬に触れた髪。
腕の中にあった身体の重み。
名前を呼ばれたときの声。
目を閉じると、鮮明によみがえった。
寝室へ行くと、妻はすでに眠っていた。
布団から出ている背中を見ながら、僕はしばらく立っていた。
この人とも、かつては触れ合っていた。
妻の寝顔を見るだけで、愛おしいと思った時期があった。
その感情がすべて消えたわけではない。
今でも家族として大切だ。
体調を崩せば心配する。
困っていれば助けたい。
けれど、触れたいとは思えない。
なぜ美沙には、あれほど強く惹かれたのか。
新しい相手だから。
秘密の関係だから。
日常ではないから。
理由はいくつも考えられた。
しかし一番大きいのは、美沙が僕を男として見てくれたことだと思う。
翌朝、美沙からメッセージが届いた。
「昨日はありがとうございました。無事に帰れましたか?」
それだけだった。
また会いたいとは書いていない。
楽しかったとも書いていない。
僕は急に不安になった。
美沙は後悔しているのではないか。
一度だけのつもりだったのではないか。
僕だけが浮かれていたのではないか。
「こちらこそ、ありがとうございました。無事に帰りました」
無難な返信を送り、続きの言葉を待った。
一時間経っても返事はなかった。
昼になっても、既読がつかない。
仕事中だと分かっているのに、何度も画面を確認した。
昨日までは、家族を壊さないために深入りしないと決めていた。
それなのに、たった半日返信がないだけで、胸がざわついている。
夕方、美沙からようやく返事が届いた。
「少し考えていました」
その一文を見た瞬間、身体が冷たくなった。
続けて送られてきた文章には、こう書かれていた。
「昨日のことを後悔しているわけではありません。でも、思っていたより隆司さんのことを考えてしまって、少し怖くなりました」
僕は画面を見たまま動けなかった。
美沙も、同じなのだ。
ただの気晴らしでは終われないかもしれない。
家庭の外に少しだけ逃げ場を作るつもりだった。
会えない時間を埋める相手がほしかった。
それなのに、一度触れただけで、もっと欲しくなっている。
僕は返事を書いた。
「僕も同じです。今日一日、ずっと美沙さんのことを考えていました」
送信したあと、すぐに既読がついた。
数分後、美沙から電話がかかってきた。
通話ボタンを押すと、少し震えた声が聞こえた。
「声を聞きたくなってしまって」
僕は会議室を出て、誰もいない非常階段へ移動した。
「僕もです」
「これ以上会ったら、苦しくなりますよね」
「たぶん」
「それでも、会いたいですか?」
答えは決まっていた。
「会いたいです」
電話の向こうで、美沙が息を吸う音が聞こえた。
「私もです」
その夜、家に帰ると、妻がキッチンで夕食を作っていた。
エプロン姿の背中を見ながら、僕は自分が二つの生活を持ち始めたことに気づいた。
妻と築いてきた、守るべき日常。
美沙と過ごす、誰にも言えない時間。
どちらか一つを選ぶつもりはなかった。
どちらも失いたくなかった。
それが身勝手な考えであることは分かっている。
家庭を壊したくないと言いながら、その外に別の居場所を作っている。
妻を傷つけたくないと言いながら、傷つける可能性のある行動を続けようとしている。
それでも僕は、スマートフォンに届いたメッセージを見てしまった。
「次は、いつ会えますか?」
台所では、妻が味噌汁の味見をしていた。
僕はその背中を見ながら、画面の中の美沙に返信した。
「来週の金曜日なら、時間を作れます」
送信した瞬間、もう後戻りはできないと分かった。
けれど、不思議と指は震えなかった。
一度目は迷いだった。
二度目からは、自分の意思だった。
