美沙の手は、少し冷たかった。
握り返してくる力も弱く、僕たちは手をつないでいるというより、互いの気持ちを確かめ合っているようだった。
「無理はしなくていいですよ」
僕が言った。
本当は、自分に言い聞かせていた。
「隆司さんこそ」
美沙が小さく笑った。
その笑顔には、迷いと期待が混じっていた。
ホテルの入口をくぐる瞬間、背後を振り返った。
知り合いがいるはずもない。
それでも、誰かに見られているような気がした。
部屋に入ると、急に静かになった。
外では普通に話せていたのに、ドアが閉まった途端、言葉が出なくなった。
美沙は窓際に立ち、カーテンの隙間から街を見ていた。
僕は上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
何をすればいいのか分からなかった。
若い頃なら、もう少し自然に動けたのかもしれない。
しかし、妻以外の女性と二人きりで部屋にいるのは、結婚してから初めてだった。
「緊張していますか?」
美沙が振り返った。
「かなり」
正直に答えると、美沙は安心したように笑った。
「私もです」
僕が近づくと、美沙は逃げなかった。
けれど、自分から触れてくることもなかった。
僕は少し迷ってから、彼女の頬に手を添えた。
肌は想像していたより柔らかく、温かかった。
美沙が目を閉じる。
その仕草だけで、胸の奥が強く締めつけられた。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
一度離れ、互いの顔を見た。
拒まれていないことが分かると、今度は先ほどより深く唇を重ねた。
美沙の吐息が頬に触れる。
肩に回された腕。
服越しに伝わる体温。
何年も忘れていた感覚が、身体の奥から一気によみがえった。
妻と最後にキスをしたのがいつだったか、思い出せなかった。
その事実が頭をよぎったが、美沙に触れている間だけは、考えないようにした。
「こういうの、久しぶりですか?」
唇が離れたあと、美沙が聞いた。
「久しぶりというより、妻以外とは結婚してから初めてです」
美沙は驚いたように僕を見た。
「もっと慣れている人かと思っていました」
「どうして?」
「落ち着いて見えたから」
「必死に落ち着いているふりをしています」
そう言うと、美沙は声を立てずに笑った。
その笑顔が近くにあることが、たまらなくうれしかった。
僕は美沙の髪に触れ、耳の後ろへゆっくりとかけた。
首筋に顔を寄せると、ほのかな香水と肌の匂いがした。
若い女性の甘い香りではない。
生活を重ねた大人の女性の、やわらかく落ち着いた香りだった。
美沙の身体が、僕の腕の中で少しずつ力を抜いていく。
背中に回した手に力を込めると、美沙は胸元に顔を預けた。
その重みを感じた瞬間、自分が誰かに求められているのだと思った。
夫でもない。
父親でもない。
ただ一人の男として、目の前の女性に触れられている。
それだけで、泣きそうになるほど満たされた。
その後の時間を、僕は細部まで覚えている。
服の布が擦れる音。
美沙が恥ずかしそうに顔をそらしたこと。
僕の名前を小さな声で呼んだこと。
手を握ると、強く握り返されたこと。
互いの体温が近づくにつれて、罪悪感よりも、離れたくないという気持ちのほうが強くなっていった。
すべてが終わったあと、美沙は僕の腕に頭を乗せていた。
僕たちはしばらく何も話さなかった。
窓の外では、車の音が遠く聞こえていた。
「私、家庭を壊したいわけじゃないんです」
美沙が天井を見たまま言った。
「分かっています」
「夫と別れたいわけでもないし、娘を傷つけたくもない」
「僕も同じです」
それは、お互いにとって都合のいい確認だった。
家庭は壊さない。
相手の生活には踏み込まない。
期待しすぎない。
会えないことを責めない。
僕たちはいくつかの約束をした。
しかし、その時点ですでに、その約束を守れる自信はなかった。
帰り際、美沙は鏡の前で髪を整えた。
口紅を塗り直し、首元を確認する。
数分後には、いつもの妻と母親の顔に戻るのだろう。
「後悔していますか?」
美沙が鏡越しに聞いた。
僕は少し考えた。
罪悪感はある。
妻の顔も浮かぶ。
それでも、後悔しているとは言えなかった。
「また会いたいと思っています」
僕が答えると、美沙は鏡の中で、静かに笑った。
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