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【4】 帰るつもりだった。それでも僕は彼女とホテルに入った

第4話 帰るつもりだった。それでも僕は彼女とホテルに入った

美沙の手は、少し冷たかった。

握り返してくる力も弱く、僕たちは手をつないでいるというより、互いの気持ちを確かめ合っているようだった。

「無理はしなくていいですよ」

僕が言った。

本当は、自分に言い聞かせていた。

「隆司さんこそ」

美沙が小さく笑った。

その笑顔には、迷いと期待が混じっていた。

ホテルの入口をくぐる瞬間、背後を振り返った。

知り合いがいるはずもない。

それでも、誰かに見られているような気がした。

部屋に入ると、急に静かになった。

外では普通に話せていたのに、ドアが閉まった途端、言葉が出なくなった。

美沙は窓際に立ち、カーテンの隙間から街を見ていた。

僕は上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。

何をすればいいのか分からなかった。

若い頃なら、もう少し自然に動けたのかもしれない。

しかし、妻以外の女性と二人きりで部屋にいるのは、結婚してから初めてだった。

「緊張していますか?」

美沙が振り返った。

「かなり」

正直に答えると、美沙は安心したように笑った。

「私もです」

僕が近づくと、美沙は逃げなかった。

けれど、自分から触れてくることもなかった。

僕は少し迷ってから、彼女の頬に手を添えた。

肌は想像していたより柔らかく、温かかった。

美沙が目を閉じる。

その仕草だけで、胸の奥が強く締めつけられた。

唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。

一度離れ、互いの顔を見た。

拒まれていないことが分かると、今度は先ほどより深く唇を重ねた。

美沙の吐息が頬に触れる。

肩に回された腕。

服越しに伝わる体温。

何年も忘れていた感覚が、身体の奥から一気によみがえった。

妻と最後にキスをしたのがいつだったか、思い出せなかった。

その事実が頭をよぎったが、美沙に触れている間だけは、考えないようにした。

「こういうの、久しぶりですか?」

唇が離れたあと、美沙が聞いた。

「久しぶりというより、妻以外とは結婚してから初めてです」

美沙は驚いたように僕を見た。

「もっと慣れている人かと思っていました」

「どうして?」

「落ち着いて見えたから」

「必死に落ち着いているふりをしています」

そう言うと、美沙は声を立てずに笑った。

その笑顔が近くにあることが、たまらなくうれしかった。

僕は美沙の髪に触れ、耳の後ろへゆっくりとかけた。

首筋に顔を寄せると、ほのかな香水と肌の匂いがした。

若い女性の甘い香りではない。

生活を重ねた大人の女性の、やわらかく落ち着いた香りだった。

美沙の身体が、僕の腕の中で少しずつ力を抜いていく。

背中に回した手に力を込めると、美沙は胸元に顔を預けた。

その重みを感じた瞬間、自分が誰かに求められているのだと思った。

夫でもない。

父親でもない。

ただ一人の男として、目の前の女性に触れられている。

それだけで、泣きそうになるほど満たされた。

その後の時間を、僕は細部まで覚えている。

服の布が擦れる音。

美沙が恥ずかしそうに顔をそらしたこと。

僕の名前を小さな声で呼んだこと。

手を握ると、強く握り返されたこと。

互いの体温が近づくにつれて、罪悪感よりも、離れたくないという気持ちのほうが強くなっていった。

すべてが終わったあと、美沙は僕の腕に頭を乗せていた。

僕たちはしばらく何も話さなかった。

窓の外では、車の音が遠く聞こえていた。

「私、家庭を壊したいわけじゃないんです」

美沙が天井を見たまま言った。

「分かっています」

「夫と別れたいわけでもないし、娘を傷つけたくもない」

「僕も同じです」

それは、お互いにとって都合のいい確認だった。

家庭は壊さない。

相手の生活には踏み込まない。

期待しすぎない。

会えないことを責めない。

僕たちはいくつかの約束をした。

しかし、その時点ですでに、その約束を守れる自信はなかった。

帰り際、美沙は鏡の前で髪を整えた。

口紅を塗り直し、首元を確認する。

数分後には、いつもの妻と母親の顔に戻るのだろう。

「後悔していますか?」

美沙が鏡越しに聞いた。

僕は少し考えた。

罪悪感はある。

妻の顔も浮かぶ。

それでも、後悔しているとは言えなかった。

「また会いたいと思っています」

僕が答えると、美沙は鏡の中で、静かに笑った。

第3話はこちら>>  第5話-完結編-に続く>>

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