約束の日、僕は待ち合わせの30分前に着いた。
早く着きすぎたことが恥ずかしくて、ホテルの周辺を二周した。
鏡に映る自分の姿も、何度も確認した。
紺色のジャケットに、白いシャツ。
普段より少しだけ高い香水をつけた。
妻と出かけるときに、服装をこれほど気にしたことはない。
午後2時を少し過ぎた頃、美沙からメッセージが届いた。
「着きました。入口の近くにいます」
ホテルのロビーへ入ると、柱のそばに一人の女性が立っていた。
ベージュのワンピースに、薄いグレーのカーディガン。
肩まで伸びた髪。
プロフィール写真と同じ、細いネックレス。
目が合うと、美沙は少し困ったように笑った。
その瞬間、写真よりきれいだと思った。
派手な女性ではない。
若く見せようとしている感じもない。
目元には年齢相応の線があり、笑うと頬が少し上がる。
それが妙に自然で、僕には魅力的に見えた。
「隆司さんですか?」
アプリで使っていた名前を呼ばれ、心臓が鳴った。
妻以外の女性から名前を呼ばれただけだった。
それなのに、身体が反応するほど緊張した。
ラウンジでは、最初の十分ほど会話がぎこちなかった。
「本当に来るとは思わなかったです」
美沙が言った。
「僕も、自分が来るとは思っていませんでした」
そう答えると、二人で笑った。
文章ではあれほど話せたのに、目の前にいると何を話せばいいのか分からない。
それでもコーヒーが運ばれる頃には、緊張が少しずつほどけていった。
美沙の声は、想像していたより低くて落ち着いていた。
話を聞くときは、僕の目を見て、小さくうなずく。
妻との会話では、これほど丁寧に自分の話を聞いてもらうことはない。
もちろん、僕も妻の話をきちんと聞いていない。
夫婦とは、そうやって相手の話を知っているつもりになっていくのかもしれない。
「実際に会ってみて、がっかりしました?」
美沙が聞いた。
「逆です」
僕は答えた。
「写真より、ずっと素敵でした」
美沙は目を伏せ、カップの縁を指でなぞった。
左手の薬指には指輪がなかった。
僕の視線に気づいたのか、美沙は左手を引いた。
「今日は外してきました」
「僕もです」
お互いの薬指を見て、少し気まずくなった。
結婚している事実を隠すためではない。
むしろ、互いに既婚者だと分かっている。
それでも指輪があると、目の前の相手ではない誰かの存在を意識してしまう。
二時間ほど話した。
家庭の話。
若い頃の恋愛。
子どもが生まれてから変わったこと。
最近、鏡を見るのが嫌になったという話。
「もう女性として終わったような気がすることがあるんです」
美沙がそう言った。
「そんなふうには見えません」
思わず答えると、美沙はまっすぐ僕を見た。
「じゃあ、どう見えますか?」
一瞬、言葉に詰まった。
「きれいな女性に見えます」
美沙の頬がわずかに赤くなった。
その表情を見た瞬間、僕の中で何かが変わった。
この人に触れたい。
初めて、はっきりとそう思った。
ラウンジを出ると、外はもう薄暗くなっていた。
「今日はありがとうございました」
美沙が言った。
「こちらこそ」
駅へ向かえば、そこで終わる。
お互いに家庭へ戻り、またメッセージの中だけの関係になる。
それが正しい。
そう思っているのに、足が動かなかった。
美沙も帰ろうとしなかった。
ホテルの入口で、二人とも黙ったまま立っていた。
「もう少しだけ、一緒に歩きませんか」
美沙が言った。
僕たちは駅とは反対の方向へ歩き始めた。
繁華街の明かりが少しずつ濃くなる。
歩道を並んで歩いていると、美沙の手が何度か僕の手の甲に触れた。
偶然なのか、わざとなのか分からない。
それでも触れるたびに、そこだけが熱を持った。
信号待ちで足を止めたとき、美沙が小さな声で言った。
「今日、帰りたくないって思ったら、困りますか?」
僕はすぐに答えられなかった。
目の前にはホテルの看板が見えていた。
帰るつもりだった。
本当に、会って話すだけのつもりだった。
それなのに僕は、美沙の手を握っていた。
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