美沙から返信が届いたのは、翌日の昼休みだった。
「メッセージありがとうございます。私もプロフィールを見て、落ち着いた方なのかなと思いました」
その一文だけで、午後の仕事が少し軽くなった。
落ち着いた方。
それは僕を実際に知っている人間なら、まず使わない表現だった。
仕事では部下に細かいと思われ、家では口数が少ないと言われる。
それでも、まだ何も知らない美沙の目には、僕が穏やかな男に見えている。
そのことが妙にうれしかった。
最初の数日は、当たり障りのない話しかしていない。
仕事のこと。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
最近見た映画。
お互いの生活圏が重ならないことも確認した。
美沙は結婚して16年。高校生の娘が一人いるという。
夫とは大きな不仲ではないが、会話は少なく、数年前から寝室も別だった。
「嫌いじゃないんです。でも、もう私を女性としては見ていないと思います」
画面に表示されたその言葉を見て、僕はしばらく返信できなかった。
自分と同じだと思った。
僕も妻を嫌っているわけではない。
離婚したいわけでもない。
家族を捨てたいわけでもない。
ただ、もう一度誰かの目に、男として映りたかった。
「僕も似ています。家庭に大きな不満はないのに、何かが足りないと感じることがあります」
それから、僕たちのやり取りは少しずつ深くなった。
美沙は、夫から名前を呼ばれることがほとんどなくなったと言った。
「お母さん」か「ねえ」としか呼ばれないらしい。
僕も妻から名前で呼ばれることはない。
いつからだろう。
思い出そうとしても、思い出せなかった。
美沙からメッセージが来る時間帯も、次第に分かるようになった。
朝の7時過ぎ。
昼休み。
そして家事を終えた、夜の11時前後。
その時間になると、僕は無意識にスマートフォンを確認するようになった。
通知がないと、少し落ち着かない。
届いていると、胸の奥が温かくなる。
妻と同じ部屋にいるときは、画面を下にして置くようになった。
通知が来るたびに、妻がこちらを見ていないか気になった。
「最近、スマホばっかり見てるね」
ある夜、妻にそう言われた。
「仕事の連絡」
僕は反射的に答えた。
妻は「ふうん」と言い、それ以上は何も聞かなかった。
疑われなかったことに安堵しながら、どこか寂しさも感じた。
僕に他の女性がいる可能性など、妻は想像もしないのだろう。
それほどまでに、僕は男として見られていない。
その夜、美沙から写真が届いた。
旅行先で撮ったという横顔の写真だった。
顔全体が分かるものではない。
けれど、柔らかく笑う口元と、耳にかけた髪からのぞく細い首筋が見えた。
「想像と違いましたか?」
そう聞かれた。
「思っていたより、きれいな人でした」
送信してから、少し踏み込みすぎたかと思った。
しかし美沙からは、すぐに返信が来た。
「そんなことを言われたの、久しぶりです」
その後に、小さな笑顔の絵文字がついていた。
たったそれだけのやり取りなのに、身体の内側が熱くなった。
誰かを喜ばせた。
女性を照れさせた。
そんな感覚を、僕は長い間忘れていた。
数日後、美沙からこう聞かれた。
「実際に会ってみたいと思ったりしますか?」
画面を見つめたまま、指が止まった。
会いたい。
その気持ちは、すでにあった。
ただ、認めてしまえば、本当に引き返せなくなる。
僕が返事を迷っていると、さらにメッセージが届いた。
「変な意味ではなくて、一度お茶をするだけでも」
変な意味ではなく。
その言葉を、僕は都合よく受け取った。
ただ話すだけ。
昼間に会って、お茶をして帰る。
それなら、まだ何も壊さない。
「僕も会ってみたいです」
送った直後、美沙から店の候補が届いた。
人目につきにくい、ホテルのラウンジだった。
待ち合わせは、翌週の金曜日。
午後2時。
予定表には「外出」とだけ入力した。
当日までの一週間、僕は何度もやめようと思った。
それでもキャンセルの連絡はできなかった。
会うのが怖いのではない。
写真の向こうにいた女性が、本当に僕を見てしまうことが怖かった。
