妻との仲が、特別悪いわけではない。
朝になれば「おはよう」と言うし、夕食を作ってもらえば「ありがとう」と伝える。
休日には一緒にスーパーへ行くこともある。子どもの進路について話し合い、住宅ローンや保険の話もする。
家族としては、たぶんうまくやっている。
ただ、妻に触れなくなって、もう5年が過ぎていた。
きっかけがあったわけではない。
大きな喧嘩をしたわけでも、どちらかが明確に拒んだわけでもなかった。
子どもが大きくなり、寝室が別になり、仕事が忙しくなった。
そうしているうちに、夫婦の間から男女の空気だけが静かに消えていった。
以前は、妻が風呂上がりに髪を乾かしている姿を見ただけで、少し落ち着かない気持ちになった。
今では、妻が目の前で着替えていても、何も感じない。
いや、正確に言えば、感じないようにしているのかもしれない。
触れようとして避けられたら傷つく。
拒まれなくても、面倒そうな顔をされたら立ち直れない。
だったら最初から、何も求めないほうが楽だった。
「もう俺たち、夫婦っていうより家族だよな」
一度だけ冗談めかして言ったことがある。
妻はテレビを見たまま、「どこの家もそんなもんじゃない?」と笑った。
その言葉に悪意はなかった。
けれど、その夜、なぜか眠れなかった。
夫として、父親として、家族のために働く人間として。
自分にはまだ役割がある。
しかし、男としての自分は、もう誰からも必要とされていない気がした。
ある夜、ベッドに入ってからスマートフォンを見ていると、「セカンドパートナー」という言葉が目に入った。
妻や夫以外に、心を通わせる相手。
家庭を壊すことを目的とせず、日常では満たされない感情を共有する関係。
ずいぶん都合のいい言葉だと思った。
不倫をきれいに言い換えているだけではないのか。
そう思いながらも、僕は画面を閉じなかった。
関連する記事を読み、体験談を読み、気がつけば既婚者向けのマッチングサービスまで見ていた。
登録している女性の写真には、顔全体が写っていないものも多かった。
横顔だけの女性。
後ろ姿の女性。
グラスを持つ指先だけが写った写真。
その曖昧さが、かえって想像を刺激した。
この人にも夫がいるのだろうか。
普段は子どもの弁当を作り、家族の洗濯物を畳み、何食わぬ顔で生活しているのだろうか。
それでも、誰かに女性として見られたいと思っているのだろうか。
プロフィールを見ているうちに、42歳の女性が目に留まった。
名前は「美沙」。
もちろん本名ではないだろう。
顔は口元までしか写っていなかった。
白いシャツに細いネックレス。肩まで伸びた髪。
プロフィールには、こう書かれていた。
「家庭を壊すつもりはありません。ただ、ときどき妻でも母でもない自分に戻りたいです」
僕はその文章を何度も読み返した。
妻でも母でもない自分。
僕が求めているのも、夫でも父親でもない自分に戻れる場所なのかもしれない。
登録だけして、その日は何もしないつもりだった。
ところが、数分後。
美沙から「いいね」が届いた。
心臓が、思っていた以上に強く跳ねた。
ただの機能だ。
深い意味などない。
何人もの男性に送っているのかもしれない。
それでも僕は、誰かに選ばれたような気がした。
隣の部屋では、妻が寝る前のドラマを見ていた。
笑い声が壁越しに聞こえる。
僕は何度も文章を書いては消した。
結局、送ったのは当たり障りのない言葉だった。
「はじめまして。プロフィールを読んで、少しお話ししてみたいと思いました」
送信ボタンを押すまで、十分近くかかった。
画面に「送信しました」と表示された瞬間、指先がかすかに震えた。
まだ、何もしていない。
知らない女性に挨拶を送っただけだ。
それなのに僕は、もう一線を越えてしまったような感覚を覚えていた。
2話へ続く>>
